マイケル・サンデル氏の記事
『ハーバード白熱教室』で有名なマイケル・サンデル氏の記事をネットで見つけました。
「デジタル世界で「信頼」をどう再構築するか―マイケル・サンデル教授との白熱討論―」
https://www.fujitsu.com/jp/vision/insights/201905event/?utm_source=taboola&utm_medium=display&utm_content=b03&utm_campaign=6996_ftsv_201905event_192q_taboola_dmp3
「テクノロジーに新たな倫理を」
https://www.i-cio.jp/management/insight/item/a-new-ethic-for-technology/
大手企業の企画記事ですが、面白く拝見しました。
討論記事では様々な立場でパネリストがサンデル教授から与えられた問いに答えています。もちろん、意見が一致するべくもないのですが、サンデル教授はそれでも皆が共通して持つ、この議論の“核”を取り出して示します(以下は引用です)。
今日の議論でもいくつか示されていたと思います。ひとつは、人事評価であれ、医療診断であれ、結婚仲介であれ、人の代わりにデジタル技術に判断させたり、人の判断を助けたりする場合、アルゴリズムが扱うことができるパターンや指標が必要であるということです。そしてこれは大きな哲学的な問題を提起します。つまり、そうしたパターンや指標で測れない人間の領域というものがあるのかということです。今日のパネリストの皆さんはその点について、恋愛や、感情、愛着、生と死を隔てる境界への敬意といったものを挙げていました。
しかし、人間の意識や愛着や恋愛が関わるような、パターンや指標で測ることができない、人間が判断しなければならない物事の範囲は曖昧なままです。人事評価はどちらに当たるのでしょうか。会場の皆さんでもパネリストでも意見はふたつに分かれていました。しかし、そこに議論の価値が生まれるのです。決してひとつの結論に落ち着かせる必要はありません。わたしたちが話しあってきたのは、医療や結婚や死者との会話といった非常に複雑な人間的な物事ですから。こうした議論には終わりがありません。テクノロジーに回答を求めることなく、わたしたち自身が考え抜くことが重要です。
サンデル教授のインタビュー記事の中で「共通善」あるいは「公共の利益」とされるものを見出す基本的な姿勢なのだと思います(以下はインタビュー記事からの引用です)。
「これからテクノロジーの行く先を決めるという意味で、市民もIT 企業も当事者意識を持つべきです」と彼は話します。「テクノロジーは天気のようなもので、我々にできるのはただそれを受け入れることだけ、というような気持ちは捨てなければなりません。テクノロジーは道具箱のようなもので、そこには様々な洗練されたツールがありますが、全ては目的を達成するためのものでしかありません」。
「道具に目的を決めさせるのではなく、道具は使いこなさなければいけません。そう考えることが自由につながるのです。テクノロジーに惑わされて、それを忘れないようにしましょう」。
「手綱を取るべきなのです」と彼は強調します。「人間が物事を選び、判断する、そして、倫理や社会の利益を重んじることが正しい判断へ導いてくれます」。
現状は、共通善を重んじる姿勢の対極にある、とサンデル氏は話します。「IT企業の経営者は、共通善を求めてテクノロジーを開発する責任があります。そうすることでプライバシーやコミュニケーション、市民社会を損なうことなく、テクノロジーの力を人類の繁栄や共同体のために役立てることができるのです」。
私はこのブログの中でも何度も「倫理」という話題に触れてきました。
確かに、情報や経済活動にはスピードが大事です。しかし、テクノロジーの発展やそれに伴う社会的な影響について十分な議論がなされず、結果的に悲惨な事態となった……という未来であってほしくないと私は考えます。“こんなはずではなかった……”という結末は、意図して悪事を行うより人間を苦しめると思います。
以前、何人かの生徒が学校で何かをすることを求めてきました(もしかしたら、何かの謝罪だったかもしれません)。そこで、それに関してプレゼンテーションをさせて、その内容次第で許可しようということがありました(残念ながら、生徒たちが何をしたかったのかを失念しましたが、学校という場にはあまりふさわしくなかったことは覚えています。私自身は、生徒たちにプレゼンテーションをさせるという意味もわかりませんでした)。
多くの先生がプレゼンテーションを聞いても納得することはなく、生徒たちの希望は通りませんでした。しかし、プレゼンテーションをさせることを提案した者がつぶやいているのを聞きました。
“プレゼンの出来がだめだな。プレゼンができてれば通ったはず。自分なら通せる。”
おそろしい違和感を覚えました。そのことが許可されるか、されないかの焦点は、プレゼンの技術ではなく、“学校という公共の場にふさわしいか”であったため、多くの教員が反対したという認識ではないのが、その発言から知れたからです。その者は、“楽しいからいいじゃないか”という視点で物を考える傾向にありました。
テクノロジーの発展や自由主義経済的な考え方は、学校をはじめとする公共の利益が求められる場でも、個人主義的で刹那的な思考や言動を促し始めています。その中にあって、人類が古今東西で普遍的に抱く人間としてもあり方とはいったいどのようなものであるのか。――言葉によってそれを知り、つむぎ、次世代につないでいく国語の可能性を私は信じたいのです。

公共哲学 政治における道徳を考える (ちくま学芸文庫)
それをお金で買いますか (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
「デジタル世界で「信頼」をどう再構築するか―マイケル・サンデル教授との白熱討論―」
https://www.fujitsu.com/jp/vision/insights/201905event/?utm_source=taboola&utm_medium=display&utm_content=b03&utm_campaign=6996_ftsv_201905event_192q_taboola_dmp3
「テクノロジーに新たな倫理を」
https://www.i-cio.jp/management/insight/item/a-new-ethic-for-technology/
大手企業の企画記事ですが、面白く拝見しました。
討論記事では様々な立場でパネリストがサンデル教授から与えられた問いに答えています。もちろん、意見が一致するべくもないのですが、サンデル教授はそれでも皆が共通して持つ、この議論の“核”を取り出して示します(以下は引用です)。
今日の議論でもいくつか示されていたと思います。ひとつは、人事評価であれ、医療診断であれ、結婚仲介であれ、人の代わりにデジタル技術に判断させたり、人の判断を助けたりする場合、アルゴリズムが扱うことができるパターンや指標が必要であるということです。そしてこれは大きな哲学的な問題を提起します。つまり、そうしたパターンや指標で測れない人間の領域というものがあるのかということです。今日のパネリストの皆さんはその点について、恋愛や、感情、愛着、生と死を隔てる境界への敬意といったものを挙げていました。
しかし、人間の意識や愛着や恋愛が関わるような、パターンや指標で測ることができない、人間が判断しなければならない物事の範囲は曖昧なままです。人事評価はどちらに当たるのでしょうか。会場の皆さんでもパネリストでも意見はふたつに分かれていました。しかし、そこに議論の価値が生まれるのです。決してひとつの結論に落ち着かせる必要はありません。わたしたちが話しあってきたのは、医療や結婚や死者との会話といった非常に複雑な人間的な物事ですから。こうした議論には終わりがありません。テクノロジーに回答を求めることなく、わたしたち自身が考え抜くことが重要です。
サンデル教授のインタビュー記事の中で「共通善」あるいは「公共の利益」とされるものを見出す基本的な姿勢なのだと思います(以下はインタビュー記事からの引用です)。
「これからテクノロジーの行く先を決めるという意味で、市民もIT 企業も当事者意識を持つべきです」と彼は話します。「テクノロジーは天気のようなもので、我々にできるのはただそれを受け入れることだけ、というような気持ちは捨てなければなりません。テクノロジーは道具箱のようなもので、そこには様々な洗練されたツールがありますが、全ては目的を達成するためのものでしかありません」。
「道具に目的を決めさせるのではなく、道具は使いこなさなければいけません。そう考えることが自由につながるのです。テクノロジーに惑わされて、それを忘れないようにしましょう」。
「手綱を取るべきなのです」と彼は強調します。「人間が物事を選び、判断する、そして、倫理や社会の利益を重んじることが正しい判断へ導いてくれます」。
現状は、共通善を重んじる姿勢の対極にある、とサンデル氏は話します。「IT企業の経営者は、共通善を求めてテクノロジーを開発する責任があります。そうすることでプライバシーやコミュニケーション、市民社会を損なうことなく、テクノロジーの力を人類の繁栄や共同体のために役立てることができるのです」。
私はこのブログの中でも何度も「倫理」という話題に触れてきました。
確かに、情報や経済活動にはスピードが大事です。しかし、テクノロジーの発展やそれに伴う社会的な影響について十分な議論がなされず、結果的に悲惨な事態となった……という未来であってほしくないと私は考えます。“こんなはずではなかった……”という結末は、意図して悪事を行うより人間を苦しめると思います。
以前、何人かの生徒が学校で何かをすることを求めてきました(もしかしたら、何かの謝罪だったかもしれません)。そこで、それに関してプレゼンテーションをさせて、その内容次第で許可しようということがありました(残念ながら、生徒たちが何をしたかったのかを失念しましたが、学校という場にはあまりふさわしくなかったことは覚えています。私自身は、生徒たちにプレゼンテーションをさせるという意味もわかりませんでした)。
多くの先生がプレゼンテーションを聞いても納得することはなく、生徒たちの希望は通りませんでした。しかし、プレゼンテーションをさせることを提案した者がつぶやいているのを聞きました。
“プレゼンの出来がだめだな。プレゼンができてれば通ったはず。自分なら通せる。”
おそろしい違和感を覚えました。そのことが許可されるか、されないかの焦点は、プレゼンの技術ではなく、“学校という公共の場にふさわしいか”であったため、多くの教員が反対したという認識ではないのが、その発言から知れたからです。その者は、“楽しいからいいじゃないか”という視点で物を考える傾向にありました。
テクノロジーの発展や自由主義経済的な考え方は、学校をはじめとする公共の利益が求められる場でも、個人主義的で刹那的な思考や言動を促し始めています。その中にあって、人類が古今東西で普遍的に抱く人間としてもあり方とはいったいどのようなものであるのか。――言葉によってそれを知り、つむぎ、次世代につないでいく国語の可能性を私は信じたいのです。

公共哲学 政治における道徳を考える (ちくま学芸文庫)

それをお金で買いますか (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
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